こんにちは、水城真以です。
今日も今日とて、『森家先代実録』を読みながら森乱丸について考えていきたいと思います。
前回までの記事


信長公、本願寺を赦す。
今回見ていくのは、こちらの文章(水城流に噛み砕いてあります)です。
天正七年の秋下旬、信長公が大阪の石山本願寺を取り潰しになるはずだったが、乱丸の母・妙向尼が一向宗であったので本願寺は彼女を通じて助命嘆願をなさったところ、乱丸より「それならば、大阪石山本願寺から一旦どこかへお立ち退きなさってから願い出てください」と言われ、本願寺(顕如)はその指図のままに和泉国願泉寺(後、紀州へ)御移りになられ、下間民部卿を遣わして『千鳥の香炉』、徽宗皇帝の『枯れ木に鳩の巣』の絵を信長公の元へ持参させ謝罪したので赦免されたということだ。
『森家先代実録』では、本願寺と信長公の和睦において、妙向尼が大きな役割を果たしたと記されています。
妙向尼は熱心な一向宗の門徒である一方、信長公が信頼していた重臣・森可成の正室であり、同じく信頼している乱丸の母でもありました(私自身は読んだことがないのですが、一説では、妙向尼の信長の正室・濃姫の侍女であったとも言われています)。妙向尼と信長公の近さを見込んで、本願寺は和睦の架け橋として、彼女を選んだものと考えられます。
しかしここで乱丸は、「それならば大阪石山本願寺から一旦どこかへお立ち退きなさってから願い出てください」と言った、とあります。
妙向尼はいきなり信長公に願い出るのではなく、小姓として信長公に仕えていた息子・乱丸に相談したものと推察しました。
そして乱丸は母の顔を立てつつ、信長公が和睦を受け入れるラインとして「石山本願寺を立ち退きなさってください」と言ったのではないでしょうか(乱丸の発案なのか? それとも信長公が妙向尼の顔を立てるためにそういう提案にしたのか? そこは『森家先代実録』には書いていなかったので、他の史料なども見比べていきたいです)。
この記述から、『森家先代実録』では乱丸が単なる取り次ぎ役ではなく、信長と本願寺の間で重要な役割を果たした人物として描かれていることが分かりました。
本願寺と森家の関係性
『森家先代実録』に記載されている、妙向尼の項目を見ていきます。
天正7年(1579年)の秋下旬、信長公が大阪の石山本願寺を取り潰しになさるはずだったのを、本願寺は困って、その頃乱丸が信長の寵愛を受けているのを頼みに、その母君である妙向尼を頼る。乱丸より「それならば、大阪石山本願寺から一旦どこかへお立ち退きなさってから願い出てください」と言われ、本願寺(顕如)はその指図のままに和泉国願泉寺(後、紀州へ)御移りになられ、下間民部卿を遣わして『千鳥の香炉』、徽宗皇帝の『枯れ木に鳩の巣』の絵を信長公の元へ持参させ謝罪したので赦免されたということだ。この一件以来、本願寺は妙向尼を一向宗の中興の人としてその肖像画を懸けて、それに蔭善をすえたとのことだ。
ここにある「蔭善」とは何かと思い調べたところ、「その場にいない大切な人や故人を想い、その人のために用意する食事を指す。遠く離れた家族の安全祈願や、故人が極楽浄土へ無事に旅立つことができるようにという願いが込められている」そうです。
本願寺は、妙向尼を特別な門徒として敬意を払っていたように読み取れました。
妙向尼は森家を支え、賢い息子達を育てただけではなく、信仰を守り抜いた逞しい女性でもあったことが伺えます。
しかし、御仏というのは残酷なものです。
これだけ信仰のために尽くし、大勢の門徒を守り抜くきっかけとなった妙向尼。そんな彼女から夫を奪い、多くの子を奪ったのです。妙向尼の人生は、御仏から与えられた試練という針の筵を歩むものだった気がします。
個人的な意見になってしまいますが、私だったら恐らく「御仏は自分を救ってくれない」と絶望し、信仰を捨てていました。しかし、妙向尼は生涯信仰を捨てることはありませんでした。
男達が「名」を遺すために命を懸けた戦国時代。
もしかしたら森家と一向宗を守り抜いたことが、妙向尼の誇りだったのかもしれません。
《参考資料》
- 『森家先代実録』
コメント