こんにちは、水城真以です。
「『森家先代実録』から学ぶ、森乱丸について」も数が増えてきました。
そのため、目次のようなものを作成してみました。

現在は、ブログの開設をしたばかりということもあり、『森家先代実録』についてのみですが、今後は『金山記全集大成』など他の史料についても読んで解説していければと思います。
『森家先代実録』と並行して読んでいるのがこちらの『織田信長家臣人名辞典』。
信長公の家臣が50音順で並んでいるだけでなく、簡単な注釈や参考にした史料なども掲載されています。
織田信長家臣人名辞典[本/雑誌] (単行本・ムック) / 谷口克広/著
それでは、本日もよろしくお願い致します。
信長公、乱丸がお気に入り。堺の著名な人々をもてなす。
堺を中心とした各地から著名な人々が安土に度々集まって来て信長公へ拝謁した。信長公が彼らに食事をおもてなしになられるときは乱丸が奉行をなさった。乱丸はお年が若くても役立つ人材でいらっしゃったので信長公の命を受けて事を執り行われたということだ。時は乱丸が十七歳、天正九年のことであった。
天正九年というと、「本能寺の変」が起きる1年ほど前のことでしょうか。
堺には、|千利休《せんのりきゅう》や|今井宗久《いまいそうきゅう》といった豪商達がいます。そういった大物達を相手にしても、乱丸は臆することなく、堂々とした仕事ぶりを発揮した様子が目に浮かびます。
余談ですが、信長公は「楽市・楽座」をはじめとした経済政策にも力を入れていました。
また、乱丸の亡き父・可成公や兄・長可公も、木曽川の水運を利用した商業活動や、塩の専売を許可していたという話などが、森家の本拠地であった美濃金山城(現在の岐阜県可児市兼山)に伝わっています。
乱丸もまた、商いをする者たちと縁のある環境で育ったことがうかがえます。
乱丸の長兄・可隆も千利休と親交があったと言われています。
もしかしたら乱丸も、父や兄を通じて商人と交流する機会があったのでしょうか? 色々想像が膨らみます。
乱丸は信長公にとっての「秘蔵」だった?
『森家先代実録』にはこんな記述もあります。
信長公がある時乱丸に「予が天下にも替えがたい秘蔵の物がある。それが何であるのか言ってみよ」とのこと。乱丸が「白斑の鷹(信長が珍重した名物の鷹)でしょうか」と尋ねると、信長公は「鷹ではないが生き物だ。もう一度行ってみよ」とおっしゃるので、乱丸は「もしかして私でしょうか・・・・・・?」と尋ねる。信長公はにこりとお笑いになられたという。
信長公が乱丸を特別な存在として見ていたことを示す逸話です。
本当か嘘か、真偽のほどは分かりません。
しかし、「どこに出しても恥ずかしくない自慢の家臣」だったからこそ、信長公は乱丸に重要な役割を任せていたのでしょうか。
越後の軍神とも出会った?上杉謙信との逸話に見る、森乱丸の名声
もうひとつ、『森家先代実録』に書いてある面白い記述をご紹介します。
なんと、越後の軍神・上杉謙信にも会ったことがあると書かれているのです。
ある時乱丸は、信長公の使者として上杉謙信の領地に赴いた。その折に謙信が通りかかって見つけられてしまって、「そなたが森乱丸か」と尋ねてきた。乱丸も語るに及ばず、こうなっては仕方がないと懐より小刀を抜き出し、すぐさま自害なさろうとしたところを、謙信の家臣達が押しとどめ、謙信は「信長が申し付けて遣わしたのだろう。城下をよくよく見てまわってお帰りなさい」と言って通って行った。こうして思わぬところで命拾いなさったのも、常々乱丸が隣国へも名高いおかげであった。乱丸はお帰りの上、信長公へこの事をつぶさにご報告申し上げれば、信長公はご機嫌上々であったということだ。
上杉謙信の本拠地というと、越後です。
安土城(現在の滋賀県)から春日山城(現在の新潟県)にまで・・・・・・当時の人の健脚ぶりには脱帽いたします(そこではない)。
まだ大きな武功を挙げていない乱丸が果たして上杉謙信に認知されるものなのか? というのはいささか疑問が残りますが、「そんな遠くまでその名が知られているのだ」という描写は、乱丸の賢さや仕事ぶりを象徴するエピソードと言えるかもしれません。
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