山川捨松とは?朝ドラ『風、薫る』で再び注目される女性
2026年放送のNHK連続テレビ小説『風、薫る』では、日本の看護や女性の社会進出に関わる実在の人物たちが描かれています。その中でも注目を集めているのが**山川捨松(のちの大山捨松)**です。
「鹿鳴館の華」として知られる彼女ですが、その本当の功績は華やかな社交界だけではありません。
日本初の女子留学生として海外で学び、その経験を日本の看護・福祉・女子教育へ還元した、近代福祉史に欠かせない人物だったのです。
会津戦争を生き抜いた少女
山川捨松は1860年、会津藩家老・山川家に生まれました。
8歳のときに戊辰戦争(会津戦争)が勃発し、家族とともに鶴ヶ城へ籠城します。
幼い少女だった捨松も弾薬運びなどを手伝い、戦争の悲惨さを身をもって経験しました。敗戦後、会津藩士たちは「朝敵」とされ、多くの苦難を背負うことになります。
この経験が、後の「困っている人を助けたい」という精神につながったとも考えられています。
日本初の女子留学生としてアメリカへ
1871年、岩倉使節団に随行する女子留学生として渡米します。
当時、彼女は数えで12歳。
10年以上にわたりアメリカで生活し、高等教育を受けました。
彼女は日本人女性として初めて大学を卒業し、学士号を取得した人物でもあります。
当時の日本では、女性が学問を修める機会はほとんどありませんでした。
だからこそ、捨松の留学は日本女性の歴史を変える大きな一歩だったのです。
津田梅子との深い絆
山川捨松を語る上で欠かせないのが、津田梅子との関係です。
捨松と梅子の二人は、ともに渡米した仲間でした。
年齢は捨松の方が年上で、幼い津田梅子を姉のように支えていたと言われています。
帰国後も交流は続き、津田梅子が女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立すると、捨松は資金面・人脈面などから大きく支援しました。
「女子教育を広めたい」という二人の想いは共通していたのです。
「鹿鳴館の華」の本当の姿
薩摩出身の軍人・大山巌と結婚した捨松は、社交界で「鹿鳴館の華」と呼ばれました。
しかし彼女が力を入れていたのは華やかな舞踏会だけではありません。
英語力や国際的な知識、人脈を活かし、日本の医療や福祉を支える慈善活動へ積極的に参加していきます。
その代表例が1884年に開催した鹿鳴館慈善会(チャリティーバザー)です。
この催しで集められた寄付金は病院へ寄付され、後の日本初の看護婦養成学校設立につながる重要な財源となりました。
現在では当たり前となったチャリティーイベントの先駆けともいえる活動でした。
看護・赤十字・社会福祉への貢献
捨松は慈善活動だけではなく、
- 日本赤十字篤志婦人会
- 愛国婦人会
- 病院支援
- 看護教育の普及
などにも深く関わりました。
アメリカで学んだ看護やボランティアの考え方を日本へ紹介し、「困っている人を社会全体で支える」という文化づくりに貢献したのです。
これは現代でいう福祉やソーシャルワークの理念にも通じています。
朝ドラ『風、薫る』の捨松
現在放送中の朝ドラ『風、薫る』では、日本の近代看護の歩みが描かれています。
その時代背景には、大関和や看護師たちだけではなく、山川捨松のように教育・慈善・看護制度を支えた人物の存在がありました。
ドラマでは彼女の華やかな一面だけでなく、その裏にある社会貢献にも注目すると、より深く作品を楽しめるでしょう。
山川捨松は福祉の歴史に欠かせない人物だった
日本の福祉史というと、
- 聖徳太子の悲田院
- 済生会
- 日本赤十字社
などが取り上げられることが多いでしょう。
しかし、その歴史を支えた人物として山川捨松の存在はもっと評価されてもよいのではないでしょうか。
彼女は
- 女性教育を支え
- 看護教育の発展に尽力し
- 慈善活動を広め
- 医療機関を支援し
- 海外で学んだ福祉思想を日本へ伝えた
まさに「近代日本の福祉の礎」を築いた一人でした。
介護や福祉は、制度だけで発展したわけではありません。
困っている人を支えたいと願い、自ら行動した先人たちがいたからこそ、現在の福祉があります。
朝ドラ『風、薫る』をきっかけに、山川捨松という女性の生涯に目を向けてみると、日本の福祉や看護の歴史がより身近に感じられるのではないでしょうか。





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