はじめに|悲田院は日本の福祉の原点だった
「悲田院(ひでんいん)」という名前を聞いたことがありますか?
現在では京都の寺院名として知られていますが、もともとは病人や孤児、身寄りのない老人、貧しい人々を救済するためにつくられた施設でした。
実は悲田院は、日本における社会福祉の歴史を語るうえで欠かせない存在です。
2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』でも登場し、平安時代の人々の暮らしや疫病による社会問題を描く重要な場所として注目されました。
今回は、介護福祉の視点から「悲田院の歴史」を紹介します。
悲田院とは?名前の意味
悲田院とは、
「慈悲の心で苦しむ人を救う場所」
という意味を持つ施設です。
仏教では、困っている人や弱い立場の人を救うことを重要な教えとしていました。
その思想をもとに、
- 病気になった人
- 親を失った子ども
- 身寄りのない老人
- 貧困に苦しむ人
などを保護する役割を担いました。
現代でいうならば、
- 高齢者福祉施設
- 児童福祉施設
- 医療福祉施設
を合わせたような役割を持っていたと言えるでしょう。
悲田院を始めたのは誰?
伝承では聖徳太子が始めたとされる
悲田院の起源については、聖徳太子が四天王寺に設置した「四箇院」の一つが始まりという伝承があります。
四箇院とは、
- 敬田院(きょうでんいん)
- 悲田院(ひでんいん)
- 施薬院(せやくいん)
- 療病院(りょうびょういん)
のことで、仏教による救済施設だったとされています。
ただし、これは伝承として伝わっているもので、歴史的に確認できる悲田院制度は奈良時代になります。
奈良時代に制度化された悲田院
723年(養老7年)興福寺に設置
史料上確認できる悲田院として重要なのが、
養老7年(723年)に興福寺へ設置された悲田院
です。
当時は施薬院(医療施設)とともに置かれ、病人や貧しい人々を救済する役割を持っていました。
730年(天平2年)光明皇后が悲田院・施薬院を整備
聖武天皇の皇后である光明皇后は、仏教による慈善活動に力を入れました。
光明皇后は皇后直属の施設として悲田院と施薬院を整備し、国家による救済制度として発展させました。
これは現在の社会福祉制度につながる「公的な福祉」の先駆けともいえます。
平安京にも悲田院が作られる
794年、都が平安京へ移ると、悲田院の制度も引き継がれました。
平安京には、
- 東悲田院
- 西悲田院
の2つが置かれました。
そこでは、
- 病人の保護
- 孤児の収容
- 貧困者への救済
などが行われていました。
しかし、平安時代中期以降、国家による支援が弱まり、次第に衰退していきます。
『光る君へ』にも登場した悲田院
2024年放送のNHK大河ドラマ『光る君へ』では、第16回「華の影」で悲田院が登場しました。
劇中では、都で疫病が広がる中、主人公・まひろ(後の紫式部)が悲田院を訪れる場面が描かれています。
この時代、平安京では華やかな宮廷文化が発展する一方で、庶民の生活は厳しく、疫病や貧困に苦しむ人も多くいました。
作中では、悲田院の運営は厳しかった――と描かれています。
悲田院の存在は、
「貴族たちの華やかな世界の裏側にあった、人々の暮らし」
を象徴する場所だったのです。
現在の悲田院:京都・泉涌寺に残る歴史
現在、京都市東山区には泉涌寺の塔頭として「悲田院」が残っています。
現在の寺院としての悲田院は、鎌倉時代の延慶元年(1308年)に無人如導によって再興され、その後戦乱による衰退を経て、江戸時代の正保年間(1644~1648年)に現在地へ移されました。
江戸時代には高槻藩主・永井家の庇護を受けて栄えました。
現在は寺院ですが、その名前には「弱い立場の人を救う」という福祉の精神が残されています。
悲田院から見る日本の福祉の歴史
現代の介護や福祉制度は、法律や行政によって整えられています。
しかし、その根底には、
「困っている人を社会全体で支える」
という考えがあります。
悲田院は、今から約1300年前に存在した日本最古級の福祉施設でした。
高齢者介護、障害福祉、生活支援など、現在の福祉につながる考え方は、実は奈良・平安時代から続いているのです。
まとめ|悲田院は日本福祉の原点
悲田院の歴史をまとめると、
- 起源は聖徳太子の四箇院という伝承がある
- 奈良時代に国家的な救済施設として発展
- 光明皇后が悲田院・施薬院を整備
- 平安京にも東西2か所設置された
- 『光る君へ』でも平安時代の福祉施設として登場
- 現在も京都・泉涌寺にその名が残る
という流れになります。
「福祉」という言葉がなかった時代から、人は困っている人を支えようとしてきました。
悲田院は、日本の福祉の歴史を知るうえで非常に重要な存在なのです。



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