こんにちは、水城真以です。
以前、アメブロで駒姫の遺品とされた着物の切れ端についてご紹介したことがあります。
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駒姫とは?
出羽の武将として有名な、最上義光の次女。いとこには、あの独眼竜・伊達政宗がいます。
東国随一の美少女とも言われていて、豊臣秀吉の後継者と目されていた豊臣秀次から、
「ぜひ側室に」
と望まれたと言います。その当時、駒姫12歳でした。義光は色々理由をつけて断りますが、秀次は関白。断りきることができず、「15歳になったら側室に差し出します」と約束します。
――それが最上家の悲運の始まりでした。
15歳になった駒姫は、京都へ向かいます。聚楽第にあった秀次の邸宅に輿入れするためでした。
当時、武将の正妻達は、領地ではなく京都にいました。というのも、秀吉が「自分に従うための人質」として京都に住まわせるよう命令していたからです。実際、伊達政宗の正室であった愛姫も、長く京都で暮らしていました(秀吉がちょっかいかけてこないように、匕首を忍ばせてるから安心してください、って手紙を政宗に出しています)。
駒姫の生母は、義光の正室・大崎夫人と言われています。山形で暮らしていた駒姫にとっては、母との再会の旅路でもありました。大崎夫人も、美しく育った娘との再会は嬉しいものだったに違いありません。
側室とはいえ、最上の姫という盤石な立場。関白の妻になるのだから、駒姫は何不自由ない生活を送れるはずでした。
豊臣秀次の死
何不自由ない生活を送ることができるはずだった駒姫。
しかし、突然の悲劇が彼女を襲います。
それは、夫となるはずだった秀次の訃報でした。
秀次が自刃した理由は?
秀次の自刃の原因には諸説あります。
●息子・拾(後の豊臣秀頼)が生まれたことで、跡継ぎにしていた秀次が邪魔になった秀吉が自刃を命じた
●妊婦の腹を裂くなどの乱行をおこなっていたとされる秀次。その人間性を問題視した秀吉が命じた
●秀次謀叛の噂が流れ、秀吉はひとまず事態を落ち着かせるために高野山での蟄居を秀次に命じた。しかし秀次は自らの身の潔白を証明するために切腹した
現代に至っても、はっきりとしたことは分かりません。
いずれにせよ、秀吉と何らかの確執があったのは間違いないと考えられます。
秀次が切腹した青厳寺は、秀吉の母・大政所が眠る寺でもあったので、敬愛する母の菩提寺を血で汚されたことも、秀吉の怒りに拍車をかけたのでしょうか。
500年以上前のことで、実際に見た人は誰もいません。
しかし秀次の死については、秀吉の怒りが見えます。
秀次は謀反人として首を三条河原に晒されます。
しかし、罪人にされたのは秀次本人だけではありませんでした。秀次の側近達に加え、妻子もまた処刑されたのです。罪人として処罰される妻子の中には、駒姫の名前も挙がっていました。
まだ正式な側室になっていなかった駒姫
秀次の妻子の一人として、市中引き回しの末に斬首されることが決まった駒姫。しかし、駒姫は秀次とはろくに会ったこともありませんでした。
最上家は駒姫の助命嘆願のために駆けずり回ります。まだうら若き15歳の美少女、遠く出羽国から来た理由がこれでは「殺されるため」ではないか――駒姫の処罰に反対する声は徐々に大きくなり、秀吉も無視はできなくなったそうです。
「出家させ、尼となるなら命を助ける」
それが秀吉の出した条件だったと言われています。
しかし、使いの者が「駒姫助命」の報せを届けたのは、駒姫どころか秀次の妻子全員が処刑された後だったと言われています。
個人的な意見ですが、果たして本当に秀吉は駒姫を助ける気はあったのだろうか? と思っています。
というのも、あまりにも「物語性がありすぎる」。
今みたいにメールもLINEもない時代とはいえ、処刑が終わった直後に届くというのは、あまりにも物語として出来過ぎてはいないでしょうか・・・・・・。というか、当日になっても助命嘆願を通すことというのは、当時でも可能だったんでしょうか?
私個人としては、秀次事件の悲劇性を高めるための創作だったのではないか、と考えています。あくまでも個人の意見ですが。
今なお故郷・山形に帰れない駒姫
斬り捨てられた駒姫は、他の妻子とともに「畜生塚」へ遺体を投げ込まれました。
上の引用でも書いた通り、私は秀吉は駒姫を助ける気はなかったと思っています。
その理由が、駒姫の遺体が他の妻子とともに捨てられたからです。
本当に助命する気があったなら、丁重に弔うように取り計らわれたのではないか? と感じてしまうからです。
駒姫のお墓は現在、山形県山形市の「専称寺」というお寺にあります。一説には遺髪があると言われていますが、姫の遺骨はありません。
余談ですが、駒姫の母・大崎夫人は、駒姫の死から数日後に急死したと言われています。恐らく娘の死から立ち直れず、自害したのではないかと言われています。


駒姫の遺品とされていた美しい着物の切れ端について
以前、アメブロでも紹介した「『皆龍寺』というお寺に伝わる、着物の切れ端」。
はじめて私がこの生地と出会ったのは、大学生の頃のことでした。
当時は、「駒姫の遺品」と言われていました。鶴や亀などの模様が刺繍されており、恐らく婚礼衣装ではないかと言われていたそうです。
実はこの着物の切れ端は、『皆龍寺』というお寺が所有しているだけではないと教えてもらいました。
別の方が「実はうちにも似たような切れ端がある」「先祖を辿ると山形に辿り着く」と話していたそうです。
駒姫とともに処罰された女性の中に、「おこちゃ」という女性がいます。恐らく、駒姫の侍女のような役割だったのでしょう。しかし、駒姫の侍女が「おこちゃ」ひとりとは考えにくいです。駒姫は自分の形見の着物を切って、侍女達に「これを私の代わりに故郷へ連れて帰ってほしい」と願ったのではないかと言われていました。

しかし、ここ2年ほどの研究で、実はこれは駒姫のものではないと証明されたそうです。
先日、数年ぶりに皆龍寺にお邪魔する機会があったのですが、その際にご住職から教えていただきました。
布の状態からして、江戸時代のものなんだと。駒姫が亡くなったあとに作られたものだそうです。
しかし、ふと気になるのは「『皆龍寺』以外にも似た生地を所有している」人の存在。
ご住職は、「この生地がテレビに出た際、電話をかけてきてくれた人がそう言っていた。でもその後お会いする機会がなかったから分からない」と仰っていました。
ただの悪戯か? それとも、その人が持っているのが本当に駒姫の着物か。
個人的には、着物が本物かどうかは分かりません。
しかし、江戸時代半ばなら、まだ駒姫の悲劇は山形でも語られていたことでしょう。
私個人としては「おこちゃ」以外の生き残った侍女が、
「姫さまのために」
と、亡くなった駒姫を忍んで縫い上げたのではないかと想像しています。
史実としては否定されたとしても、その伝承が生まれた背景には、誰かが誰かを想う心があったのかもしれない――そう感じました。

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